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2017年7月2日説教

説教タイトル:わたしの時はまだ来ていない
聖書箇所:ヨハネによる福音書7:1-13

論壇 信仰義認Ⅱ
 先週書いたように、ルーテル世界連盟とローマ・カトリック教会は「義認の教理に関する共同宣言」において合意しました。
 その結果、かつてトリエント公会議が行ったルーテル派断罪は、この宣言に提示されたルーテル教会の教えにはもはや当てはまらないこと。ルーテル教会信条集におけるカトリック断罪も、この宣言おいて提示されたカトリックの教えには当てはまらないこと。以上のことが確認されました。
 では、両教会が相当程度歩み寄れたのかというと、そう簡単なことではありません。
カトリックにとって、教会は罪の償いのために存在しているのであり、償いの思想と制度こそ重要でした。すなわち、キリストの死が罪から人を救う完全な償いであることを前提としつつ、信者に償いを求めます。洗礼後犯した大罪は、告解の秘蹟によって償わなければならない。小罪があってもミサに参加できるが、大罪は告解による償いを果たさないと参加できない。ミサとは罪を償うためにキリストを奉献する行為であり、このキリスト(パン)にあずかることで小罪がゆるされる。聖人の助け、すなわち功徳にあずかるとは、罪の償いが軽減あるいは免除されること。煉獄とは残っている罪の償いを果たす場所。死者のためのミサとは、煉獄で苦しむ者の償いを軽減・免除するもの。巡礼も償いの行為。あの免罪符も償いを軽減・免除するためのものでした。
 しかし、プロテスタントには、償いの制度がありません。償いはキリストが完全に行ったのであり、信仰によりキリストにあずかることで義とされ、救われると考えるからです。
 信仰「義認」の意味と意義は、プロテスタントとカトリックとでは、大きく異なります。両者とも罪の償いを重んじていながら、重んじ方がまったく違うからです。
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