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2018年5月6日説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書第14章1~14節
説教タイトル:「イエスの名によって祈る」

※本日録音機器の不調により説教録音ができませんでした。お詫びいたします。

論 壇 アウグスティヌス伝統 (No,18)
先週の論壇に書いたように、西方における神観は、罪を罰し、罪人をさばく神です。カトリックもプロテスタントもこの西方伝統に属しています。東方においては、罪をさばく神はなじみません。
信仰義認の教理は、十字架において罪を償ったキリストをただ信じるだけで義とされ、救われることを教えます。この信仰義認の主張は、カトリック教会が告解、ミサ、免罪符の購入、よきわざ等によって人に罪を償うことを求めることへの反対でした。結局、罪人をさばく神という西方伝統における罪の償をめぐる争いでした。義認の教理においてカトリックとルター派が一致した共同宣言はこの伝統の中で意味を持つものであり、東方伝統においては、義認の教えそのものが問題になりません。
同じキリスト教であるのに、東方と西方の間に神観をはじめとするこのような違いがあるのはなぜでしょうか。東方においては、西方の偉大な教父アウグスティヌスが重んじられず、アウグスティヌスが強く主張した原罪の教えがないことに、理由があります。
アウグスティヌスは、ペラギウスとの論争をとおして、人類はアダムにあって罪を犯し、その結果堕落し、すべての子孫がその責任を負わされているという原罪を主張しました。それゆえ、罪を償うキリストの十字架が必要になります。
東方においては、アダムの違反の結果、神との命に満ちた関係が失われたことで死が人を支配し、人は滅びるものとなった、と考えます。それゆえ、キリストによる救いは、罪の償いではなく、死の支配からの解放です。すなわち、神であるみ子が人間性を取ったこと(受肉)により、人が神の本質にあずかり、神に向かって生き、栄光化される道が開かれました。受肉の結果、キリストにおいて神性と人性とが再び結合したことで、人が神の本質(栄光)にあずかることが可能になりました。東方ではこれを神化といいます。

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