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2018年6月3日説教

説教タイトル:わたしはブドウの木
聖書箇所:ヨハネによる福音書15:1-10

論壇 違いはあっても
 先週木曜日の神学講座では、長田詠喜先生がカトリック教会とルター派教会が出した「義認の教理に関する共同宣言」を取り上げました。教文館から宣言の翻訳と解説を載せた同名の本が出版されています。
 宣言自身が、宗教改革は義認の教理をめぐる争いであったと書き、分裂の原因となった教理で一致できたことの意味は大きいことを強調しています。なお残されている問題として、「神の言葉と教会の教理との関係、教会論、教会における権威、教会の一致、職制、サクラメント、さらに義認と社会倫理の関係」があるとも書いていますが、これらについてどこまで一致できるのかはわかりません。
 それでも、分裂することによってキリスト教の純粋性を追求することから、一致点をもとに対立を克服することで本来のキリスト教の在り方を考えることへと変わりつつあります。
 では教派はどうなるのかという声が必ず上がるのですが、このことへと一足飛びに進まないほうがよいと思います。教派を考えることは、他教派の存在を前提とすることになります。特に日本の場合、外国からの多種多様な教派からの宣教師によって数え切れないほど多くの教派が誕生し、それぞれの歴史を抱えています。はっきりとした対立点があって分裂したカトリック教会とルター派教会との対話であれば、論点が明白であるゆえに、まだ協議に入りやすいのではないかと思います。両教会とも監督主義であることも協議に向いているといえます。
 教派の違いには制度上の違いもあり、教理とは別の困難があります。教派合同を考える前に、教派は別でも、違いはあっても、対立点があっても、同じキリスト教であること。見えない教会としてキリストをかしらとする一つの教会であることを正しく認識すること。これまで以上に違いを克服売ることに努めることが大切です。
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