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2017年6月11日説教

説教タイトル:わたしが命のパンである
聖書箇所:ヨハネによる福音書6:22-40

論壇 宗教改革3
 ルターが主張した「信仰義認」の教理が当時のカトリック教会に与えた衝撃について考えます。
 信仰義認とは、キリストを神のみ子であり唯一の救い主であると信じる信仰により、罪人が天上の主キリストとその功績にあずかり、罪のない義なる者と認められて神に受入れられるということです。信者は、依然として罪を犯す罪人なのですが、同時に義なる者でもあるということです。
 別のいい方をすると、神はみ子をとおして救いのみわざを行い、人は信仰によってこの神に応えるということであり、ここに神と人との命に満ちた交わり、また和解が実現します。もちろん、信仰は聖霊なる神によって恵みとして人に与えられるものです。
 以上が、罪人が救われる方法であるとするなら、地上の教会の役割は何でしょうか。教会はキリストの復活と昇天後に、聖霊降臨によって建てられた救いの機関であるゆえ、罪人の救いは教会において起る、これが公理です。ゆえに、プロテスタントは、福音を宣教することにより、人々をキリスト信仰へと導くことを教会の使命であると考えます。人々が信仰を持つ、そのための教会です。
 カトリックはこれを否定することはありませんでしたが、教会とは、キリストの代理人である教皇をかしらとするカトリック教会だけである。教皇を認めない別の教会(プロテスタント)は異端であり、異端の教会に救いはない、と主張しました。また、イエスの母マリアへの崇敬はキリストの救いにあずかるのに役立つ。聖人崇拝も役立つ、聖遺物も役立つ、巡礼も役立つ。終油なしには救われない。などなど、カトリック教会内のさまざまなものを、救いに役立つと主張しました。プロテスタントは、信仰以外認めません。
 信仰義認の教理は、カトリック教会と信仰を成り立たせている重要なものを無価値とする力を秘めていたのです。
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