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2018年6月10日説教

説教タイトル:友のために命を捨てる
聖書箇所:ヨハネによる福音書15:1-17

論壇 存在することの意味
 『まじわり』5月号で東川口キリスト教会の後藤香代子長老、6月号でわたしが、セクシャルマイノリティ(LGBT)について、教会は偏見を持たずに受け入れましょうとの趣旨のことを書きました。これを読んでカンカンになった教師がいるようです。このような重要問題については、女性教師・長老問題のときのように、特別委員会を作り、時間をかけて結論を出すべきだとも主張しているようです。
 『まじわり』に書きましたが、該当者が4~8%の割合で存在するのであれば、生まれてくる契約の子の中に、この割合で当事者がいることになります。また、教会員や求道者など関係者にも、いないのではなく、いると考えるのが自然です。女性役員の場合には、認めなければ存在しないのですが、この問題では、すでに教会の大切な一員になっているのです。事実、『まじわり』を読んで、「自分の教会の中にいます」と後藤長老に声をかけてきた方がおられるとのことです。
 「認めない」とはどのような意味であり、当事者に対しどうしたいのでしょうか。わたしには考えようがありません。
 認識しようと、すまいと、この問題はすでに各個教会の課題になっています。どのようなかたちであれ当事者が現れたとき、当人や家族、教会員から、教師と小会は判断を求められます。教派が時間をかけて考えているので待ってください、などという猶予はありえません。教会権能をゆだねられている小会が責任をもって判断すべきであり、小会の判断が積み重なれば、教派としての方向性が決まっていきます。なお、LGBTについての今日の理解を知れば、不道徳の問題ではないのですから、当事者を前にして受け入れないということはできないでしょう。
 インターネットで「LGBT調査」を検索すると、さまざまな研究機関や団体の統計的な調査結果を見ることができます。
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