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2018年5月20日説教

説教タイトル:生き方はいろいろ
聖書箇所:コリント信徒への手紙Ⅰ12:12-26

論壇 枠組みの違うキリスト教
 今年の研修所夜間神学講座において、わたしが担当する三回の講座で東方教会を取り上げています。東方教会について、わたしたちはあまり関心が無く、理解も不十分です。しかし、基本的枠組の違うキリスト教がある、ということを知ることも必要ではないかと考えました。
 というのは、『まじわり』2月号に書いたように、カトリックとルター派が、聖書が教える義認の教理において一致したというだけでなく、宗教改革時代にはじまる西方教会の分裂(カトリックからのプロテスタント諸教会の分裂)を人類にとっての負のできごととして捉え直し、他の教理や実践においてなお一致することを目指して協議を重ねているからです。これは、一致点を土台にして、相違を克服しようということなのですが、違いがあっても同じキリスト教であるということであれば、東方教会のことも合わせて考えたほうが分かりがよいと思ったからです。
 宗教改革は、分裂することをとおしてキリスト教のあるべき姿を追求したといえます。しかし、今は、一致する努力をとおしてキリスト教本来のあり方を探究することへとかわっています。ベクトルがひっくり返ったのですが、直接の当事者同士が和解したことによってこれがもたらされた、という点に意味があります。
 西方伝統にあるカトリックとプロテスタントは、キリストの救いを罪の償いと考えることで一致しています。アウグスティヌス的なキリスト教です。東方は、アウグスティヌスを受け入れず、キリストの救いを受肉による死からの解放に見ています。ただし、このような枠組の違いにもかかわらず、11世紀以降の敵対的分裂までは、互いに相容れないことがあっても、一つのキリスト教であるという意識を共有していました。
 違っていてもキリスト教として一体であることができたのはなぜか、このことを考える必要があります。
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