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2017年9月10日説教

説教タイトル:盲人をいやすイエス
聖書箇所:ヨハネによる福音書9:1-12

論壇 聖書の表現
 聖書の中には、今日でいうところの差別的な表現が出てきます。レビ記21:17~23には、祭司の努めに関連して次のように記されています。「あなたの子孫のうちで、障害のある者は、代々にわたって、神に食物をささげる務めをしてはならない。だれでも、障害のある者、すなわち、目や足の不自由な者、鼻に欠陥のある者、手足の不釣り合いの者・・・。彼には障害があるから、垂れ幕の前に進み出たり、祭壇に近づいたりして、わたしの聖所を汚してはならない。わたしが、それらを聖別した主だからである。」
 サムエル下5:6以下では、「 エブス人はダビデが町に入ることはできないと思い、ダビデに言った。『お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ。』しかしダビデはシオンの要害を陥れた。これがダビデの町である。そのとき、ダビデは言った。『エブス人を討とうとする者は皆、水くみのトンネルを通って町に入り、ダビデの命を憎むという足の不自由な者、目の見えない者を討て。』このために、目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない、と言われるようになった。」
 聖書は誤りの無い神のことばであるという理解からすると、差別的な考えや表現はないと思いたくなるかもしれません。しかし、聖書も書かれた時代の産物であり、歴史的文献という性質があります。それでも、キリストにおける救いを教えるという目的との関係では、誤りの無い神のことばです。
 イエス・キリストが生まれつきの盲人について「神の業がこの人に現れるためである」と語ったり、汚れているとされる人々に手を置いていやしたりする場面を読むと、キリストの救いには区別や差別がないことがわかります。
 聖書を読み、その教えを理解し、祈ることにより、聖書は生ける神のことばとしてわたしたちの信仰を養い、人生を支えます。
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