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2018年7月1日説教

説教タイトル:悲しみが喜びに変わる
聖書箇所:ヨハネによる福音書16:16-24

論壇 今週の婦人会読書会
 今週木曜日の婦人会主催の読書会で『キリスト教は女性をどう見てきたか』(H・キュンク)の紹介をします。研修所で本書をテキストにした講座が終了することを知った婦人会役員から、7月の婦人会読書会にて1回20分で全体をまとめ、出席者が理解できるようにすること、と依頼されました。無理な注文なのですが。
 著者のキュンクは、カトリック教会の第二ヴァティカン公会議顧問として招聘された気鋭の神学者でしたが、女性を抑圧して止まない教皇とカトリック教会を批判したため、1979年に神学を教える資格をはく奪されました。以来、テュービンゲン大学エキュメニカル研究所所長として活動してきた学者です。
 本書は、キュンクが1982年から始めた「女性とキリスト教」研究の成果をまとめたものです。
キリスト教2000年の歴史を、①原始キリスト教、②初期教会、③中世教会、④宗教改革時代、⑤近代以降に区分し、各時代における思考の枠組み(パラダイム)の中で、教会が女性をどう見てきたかについて書いています。
 原始キリスト教の章で、イエスが男女の区別なく弟子として受け入れたことを記して、福音における女性の立場を明確にし、その後の教会が女性をどう扱ってきたかを追いかけていきます。
 イエスが去った後、ガラテヤ3:28にあるとおり、キリストにあっては男女の上下、優劣の違いはないとの画期的原理が保持されていたが、女性は教会では黙っていなさい(Ⅰコリ14:34以下)などの差別的発言も散見されます。使徒時代の教会にも見られる女性蔑視的な姿は、教会外における一般的習慣(ユダヤ的習慣も含めて)と共通したことだとしても、その後の教会が女性の差別的立場を神学的に強化し、固定化したことに大きな責任があります。特にアウグスティヌス(354-430)が西方キリスト教の女性観に決定的な悪影響を与えたこと、これを知らずに西洋の女性史は理解できません。
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2018年6月24日説教

説教タイトル:「わたしは去っていくが」
聖書箇所:ヨハネによる福音書  第16章4~15節


論 壇 『横浜の女性宣教師たち』 (No,25)
毎週水曜日の研修所「キリスト教と女性」の講座に出席している方から、『横浜の女性宣教師たち』(横浜プロテスタント史研究会編 有隣堂)が研修所に寄贈されました。
 横浜開港から戦後復興まで横浜に関係する女性宣教師をほぼ網羅する254名を収録し、その中の48名を記事にまとめています。
 日本宣教における女性宣教師の活躍はよく知られています。最初の23年間に来日した宣教師の127名が男性、186名が女性であり、その後も女性の数が男性を圧倒していったとのこと。ただし、宣教師と呼ばれていても、女性信徒が海外宣教に従事したのであり、教師の身分をえていたわけではありません。
「第一章 女性海外伝道協会の成立」に、アメリカで女性宣教師が大勢誕生した経緯がまとめられています。19世紀後半に、職住分離が進み、中産階級において、女性は家庭を守るべきことになる中で、教会は家庭以外にゆるされた活動空間になった。アメリカでは1810年に初めて5人の男性宣教師をインドに送って以来、宣教師をアジア、アフリカに送るようになる。帯同した妻たちは虐げられた現地女性の境遇を知るが、因習により男性宣教師には近づけないため、宣教師の妻たちが女性宣教師の派遣を本国に求めはじめる。1861年、超教派の「米国婦人一致外国伝道協会」が結成され、同年、ビルマに最初の女性宣教師が派遣された。その後、教派別のほうがよい活動ができるとの判断で、教派ごとの女性海外伝道協会が立ち上がり、女性宣教師派遣がいっそう盛んになっていった。
19世紀のアメリカは女子教育の重要性が叫ばれた時代であり、女子初中等教育機関が数多く作られるのと同時に、初中等教育機関における女性教師の数が増えていった。この女性教師の中から女性宣教師となるものが多数おり、現地での女子教育に積極的に取り組むことにもなった。これらが日本におけるミッション系女学校の設立と関係しています。

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2018年6月17日説教

説教タイトル:世があなたがたを憎む
聖書箇所:ヨハネによる福音書15:18-16:4

論壇 役員修養会報告
 6月12日(火)~14日(木)に、豊橋において大会役員修養会が行なわれ、今井と中島龍児長老が出席しました。テーマは「70周年以降課題検討Ⅱ」でした。
 1.三野孝一先生による基調講演がありました。改革派伝統を守るためには、受け継いだ神学を守るのではなく、聖書全体をきちんと学び、聖書に聴くことが何より大切であるということでした。
 2.70周年以降の重要課題は、教師の資質です。教師の不祥事が多いからです。それゆえ、「女性役員の惠と課題」、教会の中での「ハラスメント」(教師によるもの多数)、教師会における「教師の倫理的責任と成長」という教師に関する発題が複数ありました。
 ハラスメントとは、「ことばや行為などによって他人の人格や尊厳を傷つけること」です。牧会的配慮という名目で、恋愛、結婚、家庭に牧師がどれだけかかわることができるのかは、ひと昔前と状況が違っており、今後の重要な課題です。LGBTへの対応もハラスメントにかかわります。
 3.70周年課題検討委員会からは、小峯明教師と川杉安美教師による発題がありました。小峯教師の発題は主として、会計年度統一と財務関係に関することと、教勢の観点から東北と四国への伝道支援の方策に関すること。川杉教師は、80周年に向けての宣言作成の意義に関することでした。
 4.憲法第一委員会から、平和にかんする宣言を作成する準備として、『ベルハー信仰告白』についての解説がありました。べルハー信仰告白とは、南アフリカのアパルトヘイトに反対して作成された、人種差別に反対し、キリスト教世界における人種間の一致を求めたものです。わたしは、キリスト教世界の一致も必要ですが、他宗教との関係、あるいは平和的共存を考慮せずには平和について考えることはできないと思っています。人種差別は根絶していないにしても、その非人間性は認められています。宗教による分断は、世界を覆っています。
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2018年6月10日説教

説教タイトル:友のために命を捨てる
聖書箇所:ヨハネによる福音書15:1-17

論壇 存在することの意味
 『まじわり』5月号で東川口キリスト教会の後藤香代子長老、6月号でわたしが、セクシャルマイノリティ(LGBT)について、教会は偏見を持たずに受け入れましょうとの趣旨のことを書きました。これを読んでカンカンになった教師がいるようです。このような重要問題については、女性教師・長老問題のときのように、特別委員会を作り、時間をかけて結論を出すべきだとも主張しているようです。
 『まじわり』に書きましたが、該当者が4~8%の割合で存在するのであれば、生まれてくる契約の子の中に、この割合で当事者がいることになります。また、教会員や求道者など関係者にも、いないのではなく、いると考えるのが自然です。女性役員の場合には、認めなければ存在しないのですが、この問題では、すでに教会の大切な一員になっているのです。事実、『まじわり』を読んで、「自分の教会の中にいます」と後藤長老に声をかけてきた方がおられるとのことです。
 「認めない」とはどのような意味であり、当事者に対しどうしたいのでしょうか。わたしには考えようがありません。
 認識しようと、すまいと、この問題はすでに各個教会の課題になっています。どのようなかたちであれ当事者が現れたとき、当人や家族、教会員から、教師と小会は判断を求められます。教派が時間をかけて考えているので待ってください、などという猶予はありえません。教会権能をゆだねられている小会が責任をもって判断すべきであり、小会の判断が積み重なれば、教派としての方向性が決まっていきます。なお、LGBTについての今日の理解を知れば、不道徳の問題ではないのですから、当事者を前にして受け入れないということはできないでしょう。
 インターネットで「LGBT調査」を検索すると、さまざまな研究機関や団体の統計的な調査結果を見ることができます。
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2018年6月3日説教

説教タイトル:わたしはブドウの木
聖書箇所:ヨハネによる福音書15:1-10

論壇 違いはあっても
 先週木曜日の神学講座では、長田詠喜先生がカトリック教会とルター派教会が出した「義認の教理に関する共同宣言」を取り上げました。教文館から宣言の翻訳と解説を載せた同名の本が出版されています。
 宣言自身が、宗教改革は義認の教理をめぐる争いであったと書き、分裂の原因となった教理で一致できたことの意味は大きいことを強調しています。なお残されている問題として、「神の言葉と教会の教理との関係、教会論、教会における権威、教会の一致、職制、サクラメント、さらに義認と社会倫理の関係」があるとも書いていますが、これらについてどこまで一致できるのかはわかりません。
 それでも、分裂することによってキリスト教の純粋性を追求することから、一致点をもとに対立を克服することで本来のキリスト教の在り方を考えることへと変わりつつあります。
 では教派はどうなるのかという声が必ず上がるのですが、このことへと一足飛びに進まないほうがよいと思います。教派を考えることは、他教派の存在を前提とすることになります。特に日本の場合、外国からの多種多様な教派からの宣教師によって数え切れないほど多くの教派が誕生し、それぞれの歴史を抱えています。はっきりとした対立点があって分裂したカトリック教会とルター派教会との対話であれば、論点が明白であるゆえに、まだ協議に入りやすいのではないかと思います。両教会とも監督主義であることも協議に向いているといえます。
 教派の違いには制度上の違いもあり、教理とは別の困難があります。教派合同を考える前に、教派は別でも、違いはあっても、対立点があっても、同じキリスト教であること。見えない教会としてキリストをかしらとする一つの教会であることを正しく認識すること。これまで以上に違いを克服売ることに努めることが大切です。
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2018年5月27日説教

説教タイトル:わたしは平和を与える
聖書箇所  :ヨハネによる福音書第14章15~31節



論 壇 東方教会の分裂 (No,21)
西方教会は16世紀にカトリックとプロテスタントに分れました。東方教会は5世紀という西方より早い時期に、キリストの「二性一人格」の教理を確立する論争において、三つに分れました。東方正教会と、ネストリオス派(現在の東アッスリア教会)と、単性論派(アルメニア教会、シリア教会、コプト教会)です。
この論争をネストリオス論争と呼び、二性一人格の教理を表明するカルケドン信条(451年)により決着しました。「二性」の意味は、イエス・キリストは神が人となったお方なのだから、神性と人間性という二つの区別された本性を持つ。それゆえ、「まことの神であり、まことの人である」ということを意味します。
「一人格」は、「マリアから生まれたのは誰なのか、十字架にかかったのは誰なのか」との問いに対して、「神の永遠のみ子である」との答を出すための用語です。キリストは、神であり人であるが、二つの人格(主体)があるのではなく、一人格である。キリストが行ったこと、キリストに起ったことは、すべてみ子が行ったこと、み子に起ったことである。それゆえ、生まれたのも、死んだのも神のみ子である、これを表明するのが、「一人格」です。
このカルケドン信条を受け入れたのが今の東方正教会です。
ネストリオスは、二性の区別を強く主張したために、カルケドン信条ができる少し前の431年に断罪され、追放されました。しかし、カルケドン信条には二性の明確な区別が表明されており、ネストリオスはこの信条を承認したといわれます。
単性論派は、ネストリオスを断罪した正統派リーダーであるキュリロス(444没)に忠誠を尽くそうとして、カルケドン信条を拒否しました。キュリロスは、み子は受肉前も受肉後も同一であって、何の違いもないことを主張するため、み子に「単性」(一性)ということばを使いました。ところがカルケドンに神と人の「二性」ということばが入ったため、拒否したのです。誤解したといえます。キュリロスが存命であれば分裂はなかったように思えます。

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2018年5月20日説教

説教タイトル:生き方はいろいろ
聖書箇所:コリント信徒への手紙Ⅰ12:12-26

論壇 枠組みの違うキリスト教
 今年の研修所夜間神学講座において、わたしが担当する三回の講座で東方教会を取り上げています。東方教会について、わたしたちはあまり関心が無く、理解も不十分です。しかし、基本的枠組の違うキリスト教がある、ということを知ることも必要ではないかと考えました。
 というのは、『まじわり』2月号に書いたように、カトリックとルター派が、聖書が教える義認の教理において一致したというだけでなく、宗教改革時代にはじまる西方教会の分裂(カトリックからのプロテスタント諸教会の分裂)を人類にとっての負のできごととして捉え直し、他の教理や実践においてなお一致することを目指して協議を重ねているからです。これは、一致点を土台にして、相違を克服しようということなのですが、違いがあっても同じキリスト教であるということであれば、東方教会のことも合わせて考えたほうが分かりがよいと思ったからです。
 宗教改革は、分裂することをとおしてキリスト教のあるべき姿を追求したといえます。しかし、今は、一致する努力をとおしてキリスト教本来のあり方を探究することへとかわっています。ベクトルがひっくり返ったのですが、直接の当事者同士が和解したことによってこれがもたらされた、という点に意味があります。
 西方伝統にあるカトリックとプロテスタントは、キリストの救いを罪の償いと考えることで一致しています。アウグスティヌス的なキリスト教です。東方は、アウグスティヌスを受け入れず、キリストの救いを受肉による死からの解放に見ています。ただし、このような枠組の違いにもかかわらず、11世紀以降の敵対的分裂までは、互いに相容れないことがあっても、一つのキリスト教であるという意識を共有していました。
 違っていてもキリスト教として一体であることができたのはなぜか、このことを考える必要があります。
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2018年5月13日説教

説教タイトル:真理の霊を与える
聖書箇所:ヨハネによる福音書14:15-24

論壇 東方正教会における救い
 東方正教会における人間理解について記します。正教会では、神との交わりの中で成長することに人間本来の姿を見ます。
 この聖書的説明は次のとおりです。「我々に『かたどり』、我々に『似せて』人を造ろう」(創1:26)の聖句について、「かたどり」を神の「像」、「似せて」を「肖(しょう)」と区別します。像は神の姿に創造されたことを意味し、肖は神と交わり、その恵みの中で自分の意志と力で自らを向上させるべきあり方を意味しています。神に向かって栄光化されていくこと、これが正教会の人間理解です。
 しかし、アダムは罪によって自らに死を招いて堕落し、神の肖を達成できなくしてしまいました。この罪が病気のように蔓延したことで、各人が罪をおかして堕落し、肖を実現できなくなったのが人類の姿です。人間性そのものが力を失いました。
 正教会はキリストの救いを受肉に見るのですが、それは以下のような理解です。
 み子は、人間性を取って人となり、人としての生をまっとうしました。その生涯は、悪魔の誘惑を退け、神との交わりの中で神が望むあるべき人間の姿(肖)を具体的に実現していくことでした。肖を達成しただけでなく、人なるキリストが十字架に死んで復活したことにより、死に支配されていた人間性が死に勝利しました。このことの意味は、アダムが罪をおかして以降の人類の歴史がキリストにおいて訂正されるとともに、栄光に満ちたあるべき人の姿がキリストにおいて実現したということです。
 キリストのもとに、神と人との完全な交わりがあり、人が神の本性にあずかって栄光化される唯一の道があります。人がこのキリストを救い主と信じて従うことは、神との交わりに生きることであり、神の本性にあずかって栄光化されることにほかならない。これが正教会における救いの中心です。
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2018年5月6日説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書第14章1~14節
説教タイトル:「イエスの名によって祈る」

※本日録音機器の不調により説教録音ができませんでした。お詫びいたします。

論 壇 アウグスティヌス伝統 (No,18)
先週の論壇に書いたように、西方における神観は、罪を罰し、罪人をさばく神です。カトリックもプロテスタントもこの西方伝統に属しています。東方においては、罪をさばく神はなじみません。
信仰義認の教理は、十字架において罪を償ったキリストをただ信じるだけで義とされ、救われることを教えます。この信仰義認の主張は、カトリック教会が告解、ミサ、免罪符の購入、よきわざ等によって人に罪を償うことを求めることへの反対でした。結局、罪人をさばく神という西方伝統における罪の償をめぐる争いでした。義認の教理においてカトリックとルター派が一致した共同宣言はこの伝統の中で意味を持つものであり、東方伝統においては、義認の教えそのものが問題になりません。
同じキリスト教であるのに、東方と西方の間に神観をはじめとするこのような違いがあるのはなぜでしょうか。東方においては、西方の偉大な教父アウグスティヌスが重んじられず、アウグスティヌスが強く主張した原罪の教えがないことに、理由があります。
アウグスティヌスは、ペラギウスとの論争をとおして、人類はアダムにあって罪を犯し、その結果堕落し、すべての子孫がその責任を負わされているという原罪を主張しました。それゆえ、罪を償うキリストの十字架が必要になります。
東方においては、アダムの違反の結果、神との命に満ちた関係が失われたことで死が人を支配し、人は滅びるものとなった、と考えます。それゆえ、キリストによる救いは、罪の償いではなく、死の支配からの解放です。すなわち、神であるみ子が人間性を取ったこと(受肉)により、人が神の本質にあずかり、神に向かって生き、栄光化される道が開かれました。受肉の結果、キリストにおいて神性と人性とが再び結合したことで、人が神の本質(栄光)にあずかることが可能になりました。東方ではこれを神化といいます。

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2018年4月29日説教

説教タイトル:わたしは道、心理、命
聖書箇所:ヨハネによる福音書第14章1~14節



論 壇 東・西で違う神観 (No,17)
東方正教会について理解するには、日本のハリストス正教会が出した『正教会の手引』が役立ちます。また、この書は、インターネットで『正教会の手引』を検索すると、PDFで入手できます。
西方伝統と東方伝統では、キリストによる贖いについて理解に違いがあります。西方におけるキリストの贖いは、罪を償うことによる救いであり、十字架の死がその核心です。東方における贖いは、キリストにより神の栄光にあずかって死の支配から解放されることであり、み子の受肉が救いの核心です。
この違いが端的に表れるのが幼児洗礼の意味です。わたしたちの教会の式文に、「私たちは、生まれながらに罪と咎(とが)と汚れのあるものですから、キリストの血と御霊による清めが必要です」とあります。「生まれながらの罪と咎と汚れ」とは、幼児もアダムの罪と堕落に連座しているとの理解です。堕落とは「アダムの最初の罪と罪責を負う」(小教理18)ことであり、その結果「神の怒りとのろいの下にあり、・・・永遠の地獄の刑罰」(19)の責めを幼児も負う。それゆえ、まだ何もしていない赤子にも罪を償う十字架の救いが必要であり、洗礼をさずけます。
東方伝統では、幼児洗礼に、罪や罪責、罪に対する神の怒りとのろいからの救い、という意味はありません。死の力から解放されてキリストの復活の命に生きる。このための洗礼です。
この違いから、東方と西方の神観も違ってきます。西方においては、罪に怒り、罪人を罰して償わせる正義の神。東方においては、神が人間性を取ったことで、人が神の本性にあずかって栄光化され、死ぬべき者から神の命に生きる者に生まれ変わる、この道をひらいた神です。東方には、のろい、さばき、罰する神はなじみません。
東方と西方を比べることで、わたしたちのキリスト教理解を知ることができます。

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